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「歴史を生かした街づくり」の考え方

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  「ヒストリー分科会」で取り組んでいる
「港町木更津」の
「歴史を生かした街づくり」の考え方を掲載しています。


●歴史を活かした街づくりを進める上で考えるべきこと

(一)木更津における歴史の価値の認識状況

 どの地域にもそこで人が暮らし営みを続けている所には地域固有の歴史や文化が存在するということは、その価値の評価は別として誰もが認めることであろう。
 しかしながら、地域内の方からよく言われることは、「木更津には人を呼べるような歴史や観光資源がない」ということであり、「歴史を活かした街づくりはうまく行かない」ということである。
 これは、日本の社会教育における歴史が、政治史、行政史的な意味合いが強く、都の変遷やそれに関わる地域や主要な人々及び、出来事を項目として理解することであることと、地理も気候、地勢や産業の典型的なものを特徴として理解し概括的に把握できるような内容であるという点において、自らが受けた教育の中で「木更津」という文言がそこに現れる機会が殆どなかったということであろう。
 更に、昨今の「街おこし」、「地域おこし」ブームの方法論として「日本一」、「世界一」探しが多数の支持を得ていた風潮と併せると、歴史面ではかつての都、それに関連した人々の活動の場、典型的な出来事が起こった場所、地理的には、特徴ある気候・地勢あるいは産業によって認知されている地域が有利であるということになり、比較論として「木更津にはそういったものが無い」という結論を導き出してしまうのであろう。

(二)恵まれた木更津における史実の扱い

 しかし、果たしてそうであろうか。今、人が訪れ、賑わっている地域の全てが古くから人が呼べるような歴史や観光資源を持っていたのであろうか。歴史を活かした街づくりで結果を出し始めた地域は皆、元々そこに誰もが納得する程の特徴を保有していたのであろうか。例外はもちろんあるであろうが、多くの地域はそこに辿り着くまでに「何らかの策」を立て、活動を継続してきた結果として、そのような状況にまで仕上げてきたというのが正しい理解ではないであろうか。
 よく地域外の方から良く言われることであるが「木更津は恵まれている」、「何か自発的に取り組まなくても食べていけるからのんびりしている」ということがある。他の地域の人々は地域の「誇れるもの」が何かを捜し求め、やっと見つけたものを「拠り所」として皆で醸成し、地道な活動の継続として何とかやってきているという状況を潜り抜けてきている。そのような地域の方々から見ると、その「拠り所」となりうるものが多数存在しているにも関わらず、そのような活動をしなくても「食べていける」という状況を「羨ましく」も思い、「もったいない」と思って、そのように述べているようである。
 このような点を踏まえ、木更津の歴史・文化を見てみると、金鈴塚古墳や大塚山古墳等、多くの古墳が存在し、そこから全国的にも、また世界における日本を考える上でも非常に希有な遺物があり、類希な出土品が発掘されていることから当時は非常に重要な地域であったことは容易に想像できる。
 また、日本武尊、藤原鎌足、源頼朝等、豊富な伝説・逸話が存在しているし、著名な方々が多数訪れたり、活動していたという史実が存在しているのである。更に、木更津浦から木更津港という海上交通の拠点であったことから房総有数の商業地として栄え、その流れを受けて今に至っているという歴史の中には、充分かつ多数「拠り所」と成りうるものが存在していると考えられるのではなであろうか。
恐らく、このことは今回の分科会で取り上げるまでもなく、過去においても現在においても地域を拠点として活動されている方であれば、その多くが認識されていることであると思う。それにも関わらず、「そのような活動が継続的になされてきていない」、「そのようなものはない」という認識に帰着してしまうということは、やはり「木更津は恵まれてきた」と言わざるを得ないのであろう。

(三)再認識すべき歴史の位置づけ

 高度成長期において、木更津の中心市街地は、経済発展を主な価値観とし、地域の歴史・風土・民俗・文化という地域固有の特徴を活かすことは必要なかったと思われていたばかりでなく、むしろ蔑ろにしてきたように感じる。そして木更津という街が「木更津という場所」ではあるが、「どこにでもある駅前の街」になってしまった。そして今、「どこでもある駅前の寂びれた街」となってしまった。
 今の状態は地域経済の衰退という面も重要な問題として認識されなくてはならないが、問題の本質は、非常に短期間の間に、かつてそこにあった「街としての基盤」が失われてしまったという「機能面での不足」という現実と、「喪失感」が生み出した「心の拠り所を失った状態」であると感じている。そのような状態である今、「街づくり」を考え、進めていくに当たって、「どんな街」にするのかということを改めて考える良い機会ではないかと考える。
 先にも挙げたように、木更津に活かすべき歴史がないのでなく、活かすことが必要でなかったということだとすれば、歴史・風土・民俗・文化というものは、その価値・評価については様々な見解があるであろうが、「かつてあった」「かつて行なっていた」という事実に裏付けられているという点においては、地域の方々にとって非常に「確かなもの」である。それらを、そこに生きた方々の生活と活動の実態として捉えると、そこに人々の暮らしと営みがあり、その暮らしと営みを支える基盤が地域の人々の繋がりと創意工夫によって創られてきたという事実に出会うのである。
 そして、その事実と今の我々の暮らしや営みが繋がっているということを認識することが、「心の拠り所」の一つになり得るのではないかと考える。そのような認識をすることで、その根っこの部分に「木更津らしさ」を支えている地域固有の歴史・風土・民俗・文化というものが、地域で暮らし、営む人に「ここで暮らし、営み続ける意義」として、かすかに浮かび上がってくるのではないかと考える。

(四)歴史を活かした街づくりに向けて

 木更津には「拠り所」となる歴史は多数存在すると考えられるが、それを街づくりに活かしていくためには、その取り組み方について幾つかのことを考えなければならない。
 まず大前提として、非常に長期に亘り、そのような観点での活動をしなくても成り立っていた「文化」があるので、今においてそのようなことを始めることができるかということである。恐らく多くの方は「億劫」であろうし、誰かが進めてうまく行くにが見えれば相乗りする程度ではないであろうか。所謂、主体者不在ということである。これでは何も始まらない。また、形式上主体者が存在しても「やらされ感」を背負っていたのでは、進んで行かない。まず、この人探しが成功の可否を決めると言って良いであろう。
 また、「拠り所」と成りうる史実が豊富であるということは、活動を進める上で、焦点が定まらないということでもある。そこである特定の史実を以って全体のコンセプトを築こうと試みると、全体の賛同を得ることができず、全体の賛同を得ようとコンセプトを調整していった結果として、そのコンセプトがぼやけてしまい、コンセプトそのものが「拠り所」とならず、意味をなさなくなってしまうこととなる。
 上記の「人」とその「コンセプト」が求心力であり、原動力であるから、コンセプトがぼやけてしまってはならない。将来的に活動範囲を広げていく場合には、そのコンセプトで広げられる範囲は、その価値観を共有できる範囲となるため、かなり限られてしまうと思う。その範囲外については、別の人が別のコンセプトで活動を立ち上げれば良いのである。そしてそれらが繋がっていくことが、活動が地域性を以って、広がっていくということではないであろうか。
 そこで、活動を進めていくには、「場」が必要である。活動を進めるには多くの協力者や支援者が必要であり、その方々と関わりを継続していかなければならず、時によっては膝詰めでの議論が必要にもなってくるであろう。要は人と人との繋がりの場ということである。
実際のこの活動は、既存の施策の適用というようなレールが敷かれていて、それに乗るか否かというの受動的・選択型の行動ではではなく、レールを自ら敷くことに取組みのか、どのようなレールをどこにどの方向に敷くのか、そのレールが出来上がったらどのような汽車を走らせるのか、そしてその結果として何をもたらそうとしているのかということを考え、決定し、動くという積極的・創造型の行動に取り組まなくてはならないということである。
一過性、話題作りのための活動であるのであれば、それはそれでやり方はあると思う。しかし、もし継続的かつ本質的な活動として進めるのであれば、これらのことを踏まえて、準備をしなければならない。歴史を活かした街づくりは、その街の主体者以外にはできないと思うのである。


【参考】ヒストリ分科会での意見(抜粋)

(一)史実について

・木更津は歴史・文化のある町である。「西の海に開かれた町」であり、古墳時代における「ヤマトタケル」伝説、近世には活発な江戸との交流があり、与三郎や証誠寺のお話などが生まれている。
・太田山周辺の「恋の森」伝説はロマンチックな雰囲気があるので生かせるのでは。
・木更津において、歴史的に訴求力のある時代設定としては古墳時代の古墳とヤマトタケル伝説、近世からの港町文化ではなであろうか。
・古墳時代においては、金鈴塚の出土品のほか、大塚山古墳の出土品も非常に貴重なものである。
・港町木更津と言った場合、木更津の港ができたのは明治に入ってからで、それまでは木更津浦であった。
・幕末から維新の時代の請西藩の木更津義軍はもっと世に知らしめても良い話である。大河ドラマの相乗り等も考えてはどうか。
・地域には著名な文化人が訪れている。そのような繋がりも生かせるのではないか。
・失われつつある民俗行事も継承していくことが大切では。

(二)既存の活動の状況

・現在の観光客の受入れに関しては、課題がある。駐車場やバスの進入路、公衆便所、安価な食事所等である。
・観光バスの対応においては、木更津での滞留時間が少なく、あまりお金を落としてくれない。最近は賽銭もしぶくなってきており、短時間の案内のみである。
・観光客の受入れを進めるには、食事等の値段において、要望側と提供側のギャップがある。また、商店の対応も決してよいとは言えない。
・市内の主要観光スポットを巡るシャトルバスがあると良い。
・安西家では昔のくらしの体験などを行っているが、小学生などには結構好評。
・公民館活動において歴史講座等、歴史に感心を持ち、知識を保有する方々が地域に育ってきている。
・地域には歴史的に貴重なものが結構あるが、地域の人や所有者がそれを貴重だと理解していない。
・歴史的に地域の商業は環境要因に支えられてきた経緯がある。現在、その環境要因がなくなった中で自ら活動を起こさなければならない状況にあるのではないか。

(三)歴史の活かし方について

・アインスビル(アクア木更津)の1フロアーを木更津の歴史・民俗資料館として活用し、地域の歴史的遺産や地域の獅子頭の保管などを行ったらどうか。場合によっては、獅子舞などが見れれば尚良い。
・木更津ばやしは、もっと多くの方に見てもらえないか。場が設定できれば、別の場所でもできると思う。
・狸ばやし(まつり)はもっと長い時間やることはできないか。

(四)活動の仕方にについて

・街づくりをするには、現にこの地域で活動されている方々に目を向け、その方々が関わって進めて行けることが重要である。
・歴史や風土をどのような切り口で生かすにしても先ず、「知ること」「知らせること」から始めなくてはならない。分かりやすく言えば、「木更津ってどんなとこ」ということに、歴史的背景を含め自身と愛着を持って地元の人が語れるようにならなければならない。
・歴史を生かした街づくりを進めていくには、地域の主体と議論の場が必要。
・活動の前提として木更津駅西口のエリアでの伝統行事・祭事等を整理してみる必要がある。

(五)その他

・川越では国の指定文化財に見学・説明を有料で行っている。また、街として、人とのふれあいや暖かみを感じる。
・高崎市の郷土資料館ができたときに金鈴塚の企画展を行い、木更津からも招かれたことがある。そのような地域との連携は継続的かつ双方向に続けられるよう大事にすべきである。
・港周辺を若者のパフォーマンスの場にしてはどうか。
・現在木更津市が行っている、横浜市都築区との交流を活用できないか。

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